特集「終戦から62年!小林育三郎 戦争体験を語る」
守山市有線放送が、一昨年より終戦特集として放送し、番組に出演して頂いておりました守山2丁目小林育三郎さんが、今年4月お亡くなりになられました。享年86歳でした。心からご冥福をお祈り致します。
ご家族のご了解を得まして、今年も終戦特集として昨年の夏に収録放送しました番組を下記の通り再放送させて頂きます。
    62年前の昭和20年、私は兵隊でビルマの戦場で戦っておりました。兵隊にもいろいろありまして、「戦車兵」とか「航空兵」とか格好の良い兵隊がおりますが、わたしは、「歩兵」、歩く兵隊でした。
 一番、もっさりした兵隊だったんですが、しかし最前線で戦うのが「歩兵」で、退却する時には、みんなが退却したあと、一番最後に退却するのも「歩兵」でありました。「歩兵」の中でも私は、重機関銃という兵器の兵隊でして、重機関銃というのは、1発ずつ出る小銃とは違って、両手でパッと打つと20発が出る威力のある兵器。その兵隊でしたのでいつも一番大事なところ、戦闘になれば一番危ないところで戦争をしておりました。
 それで、戦争の残酷なこと、悲惨なこと、そして怖いことをもう十分に体験してまいりました。その体験談を6日にわたりまして聞いていただきたいと思います。
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第一回目  
 「私の8年間の兵隊が始まった」

 私、小林育三郎でございます。みなさん、お久しぶりでございます。昨年8月、終戦60周年の記念番組の時には、私の戦争体験談を聞いていただきました。ありがとうございました。

 今回は、終戦61年目の8月を迎えまして、6回に分けて聞いていただくことになりました。去年と同じ番組で、同じ話しで大変、恐縮ではございますが、戦争の残酷・悲惨というものは、何度お話しさせていただきましても尽きるものではありません。平和の尊さ、ありがたさというものは、何度、何回学んでも学びきれるものではございません。どうか、戦争の残酷・悲惨さを学んで聞いていただきまして、想いを新たにし、8月15日を迎えていただきたい、これが私の衷心からのお願いでございます。

 私の兵隊は20歳の徴兵検査から始まりました。徴兵検査・・・この言葉は死語でして、この言葉を知っておられる方、まして、徴兵検査を受けられた方は、もう80代の半ばくらいかと思いますが、私はこの検査を受けました。
 徴兵検査というのは、大日本帝国に生まれた臣民で、20歳になった男子が必ず受けなければならない検査でした。東京帝国大学を卒業した超エリートの秀才も、自分の名前だけがやっと書けるという風な、無学の男も、金持ちのぼんぼんも、食や食わずのこせがれも、みんな一緒、みんな同じ決められた日に、決められた場所へ出頭してこの検査を受けたものでした。そして、この検査の結果、軍隊へ入る日が決まったのであります。
 私、66年前の昭和15年4月、この検査を受けまして、第一乙種と言う級で入営することになりました。入営は、昭和15年12月1日、その日が近づいてまいりますと、家の表に紅白の門を建てまして、そして、勤め先とか知り合いの人から贈られたのぼり。そののぼりには、「祝・入営」入営を祝すと書いてあるんですが、こののぼりを建てまして、私の家からは入営するんやでと、世間にPRしたのでありますが、このPRには、スパイがいるということになりまして、おそらく私たちの時が最後だったかと思うのですが、11月30日、こののぼりや日の丸の旗をたてて守山駅まで送っていただきました。そして、翌日、12月1日、福知山歩兵第20連隊に入営いたしました。これが私の8年間にわたります兵隊の第一歩でございました。
  
第二回目  
    「動員下令される。ビルマの戦場へ」

 私、昭和15年12月1日に入営いたしました。そして、それから旬日にならずして、当時は支那というたんですが、中国の南京へ参りまして、昭和16年の正月は南京で迎えました。南京で歩兵第67連隊というのがございまして、それが私の原隊でございました。ここで、初年兵教育を受け、兵隊らしくなっていきました。そして、その年の12月8日、太平洋戦争が勃発。ちょうどその時私は、九州久留米の予備士官学校に在学中でございました。その日は、私の22歳の誕生日でもございました。しぼられました。校長曰く、「大日本帝国陸軍の興廃は、貴様たち、下級将校の双肩にあり。」なんて言われまして、毎日が月月火水木金金、1日の休みもなしにしぼられまして、昭和17年3月31日に卒業いたしました。

 卒業いたしますと、在学中の成績によって行く先が決まるんです。成績が良い者は、皆、原隊復帰といいまして南京へ帰っていきました。成績の悪い者は転属といいまして他の連隊に養子に出されるのですが、私はもちろん成績の悪い方で、私の転属して行った先は、敦賀の歩兵第119連隊でございました。成績が良い南京へ帰った連中は、その後、ビルマへ転戦し、あの有名なインパール大作戦に参加。みんな死んでしまいました。成績が悪かったばかりに私は61年間も長生きをさせてもらって、こうして生かせてもらっています。
 敦賀では、召集令状で入って来た兵隊を教育しては第一線へ送るのが役目でした。昭和17年、18年頃、敦賀の連隊へお入りになったお知り合いの方もおられたのではないでしょうか。その頃、30歳を越えたと思われる年をとった兵隊が入って来ますと、「この兵隊には、奥さんや子達がいるだろうに、無事に妻子のもとへ帰れよ。」と祈りながら送ったものでした。
 戦場へ送った私たちが送られる事になりました。敦賀歩兵第119連隊に動員下令。連隊全部が戦地へ行くことになりました。召集令状で召集されたものが、ぞくぞくと入ってまいります。新しい軍服が支給されました。夏服でした。南方の戦場へ行く事は分かったのですが、船がありません。その頃、日本の近海には敵の潜水艦がうようよして、輸送船を狙って南方へ行く兵隊を狙って魚雷を発射。戦地へ着くまでに海のもくずと消えて行った兵隊が数知れずございました。それで、一隻、二隻では敵の潜水艦の餌食になる「大船団を組んで行くべし」と言うことになり船団を組むために、今津饗庭野で3月まで待命、昭和19年3月、大船団を組んで広島県の宇品港を出発しました。上には飛行機がブンブン飛んで、横には駆逐艦がみっちりと守って堂々の大船団でした。軍歌暁に祈るにあります「あぁ堂々の輸送船、さらば祖国よ栄えあれ。遥かに拝む宮城の空に誓ったこの決意。」大船団は、南へ南へと下がっていきました。
 その頃「ジャバの極楽、ビルマの地獄、生きて帰らぬニューギニア」なんて兵隊の間でいうたんですが、ジャバは今のインドネシア、インドネシアは極楽、ビルマは地獄、ニューギニアはまず生きて帰れない。ビルマの地獄、地獄のビルマへと、船は近づいていったのでした。

  
第三回目  
    「隣の戦友は、機銃弾で死んでいった」

 昭和19年6月のことです。その頃になりますと、ビルマの戦場の戦況は極度に悪くなって来ました。毎日が、退却、退却でした。ビルマは雨期で、毎日が雨、雨でした。昼間は、敵の飛行機が絶えず監視しておりますので、夜の退却でした。雨期で雨の中、夜行軍で逃げて行く・・・それは悲惨でした。その日も雨の中の退却でした。もう、ずぶ濡れでした。

 前に、ビルマ人の家が見えてきました。夜が明けてきました。早く隠れなければ敵機に見つかると気が気でない時、そのビルマ人の家が見えて来たのです。
 しかし、「決してビルマ人の家へ入ってはいけない。」と厳命されていました。「ビルマ人の家へ入って動く者があれば、それは退却する日本兵とすぐに分かって銃撃されるから、その家の近くの大きな木の下で待機するように。」と言われていたのでしたが、その日はずぶ濡れでした。空腹でした。眠かった。禁を破ってビルマ人のその家に入っていったのです。
 そして、2時間が経ちました。飛行機が上空で旋回を始めました。みんな知らずに寝ていたのですが、旋回から急降下・・・「ヒューン!バリバリバリッピシッ!!!」銃撃が始まりました。それで気がつきました。もう逃げる間もありません。鉄帽をかぶって、そして守山からもらって来たお守り袋をキュッと握り締めて、伏せるだけ。当たればもうそれまで、敵機の銃爆撃に身をさらしたのでした。
 その時のことです。私の隣で伏せていた市川上等兵が「ギャー!」と悲鳴を上げました。見れば市川の大腿部に機銃弾が貫通して血が吹き上げています。「市川!しっかりせー!しっかりせー!」市川を抱き起こしましたが、顔はたちまち紫色に変わって行きます。止血は及びません。唇がかすかに動きます。「市川!何や!何が言いたいんや!」その時です。これがおそらく最後の気力というのでしょう、市川はふり絞るように「おっかぁー!」と母親を呼んだのです。
 その時、おそらく市川の魂は故郷へ帰っていたのでしょう。市川は私の膝の上で死んで逝きました。それにしても、市川の膝と私の太ももとは、30センチしか離れていなかった。30センチこちらだったら私が・・・そう思いますと、生と死は紙一重と言いますが、まさに、30センチが生と死を分けてくれたのでした。
 
第四回目  
    「9人の戦友は戦車砲で吹っ飛んだ」

 昭和20年3月27日。私はこの日を、絶対に忘れることはありません。私はこの日、ビルマの戦場「メークテーラー」という飛行場の陣地におりました。
「飛行機の無い日本に飛行場がなぜ必要か。その飛行場を敵が利用すれば困るので絶対にその飛行場を敵に渡してはいけない、死守せよ。」という命令を受けまして、ここに機関銃の陣地を構築していたのです。そして、ここに11人の戦友でその陣地を守っていました。
 その頃、ビルマは乾期でした。一滴の雨も降らない。雨が降らなくなると飛行機の上に戦車の来襲も心配されます。
飛行機の「ヒューン!バリバリッ!ピシピシッ!」も怖いですけど、敵の戦車が轟音で「ゴッゴッゴッ」とキャタビラの音を響かせるのも怖いです。
 この日も敵の戦車は必ず来ると緊張して待ち構えていましたが、みんな朗らかなやつばかりでした。タバコは貴重品で、1本のタバコを11人が回しのみしていました。
 話しは食い物のことばかり「日本へ帰って食いたいものは、寿司、天ぷら、うなぎ」なんてね・・中には「カレーって言うやつがおると、お前ハイカラやな、洋食やなぁ」と言うて大賑わい。みんな、朗らかないいやつばかりでした。
その時、大隊長から命令がきました。「中隊長戦死、小林は中隊長代理となり、中隊長の位置につき、指揮をとるべし。」中隊長戦死、愕然としました。
 中隊長は草津の出身の方で、新婚間もない応召でした。長男が産まれた、写真を送ったと手紙がきて、その写真を待って待っておられたのですが、とうとう顔を見ることもなく、べっぴんやと自慢していた新婚の奥さんを残して戦死とは胸がつぶれました。
 命令に従い、私は当番兵を連れて20メートル中隊長の位置まで移動しました。そして5分。敵の戦車が攻めて来ました。陣地を目指して猛烈に撃ってきました。戦車砲の炸裂音で耳をろうするばかり。砲煙、硝煙で何も見えず、ただ、残してきた9人の無事を祈るばかりでした。
 戦車がいきました。見にやった当番兵が転ぶように帰ってきました。「隊長殿、9人全部死んでおります。」陣地へ駆けつけました。なんと9人全員戦死、5分前までタバコを回しのみしていたやつらが、寿司、天ぷらと食いたがっていたやつらがみんな、みんな死んでいる。
 心臓が凍りました。ここにその時の戦死者名簿があります。兵長 稲津正義 昭和20年3月27日、メークテーラー飛行場にて頭部貫通銃創戦死と書いていますが、あとの8人は、なんと右に同じ、右に同じ〃〃なんです。9人も死んだのに戦争は“右に同じ”で片付けるとは、なんと人の命を粗末にするものか。深い憤りを覚えます。それにしても私は、5分の違いで生き延びた。先に30センチで、今は5分の違いで生かしてもらっている。生と死、その分かれ目は・・・しみじみと知ったのでした。
 
第五回目  
     「捕虜収客所で知った父の愛」

 今日は、あまり話していない捕虜収容所の話を聞いて下さい。
 終戦になってから22年7月復員までの2年間、捕虜収容所に入れられました。収容所の建物は、竹のあんぺらを組み立てたお粗末なものでしたが、シベリアと違って暑い所でしたので、これで良かったのですが、ひと棟に6.70人が住んでおりました。
 毎日が強制労働でいろんな作業をさせられました。セメント・石炭の積み下ろし、缶詰のケースの詰め替えとか、造船所のペンキ塗り、道路の補修とか、それは過酷な作業でした。作業所への往復は、たいてい徒歩で、横に剣付き鉄砲のインド兵が監視しておるんですが、これは、一般のビルマ人にかつての日本兵がこんな惨めな格好であるのを見てやれという風に見せしめでした。
 ただその時は、日本へ帰れる、それだけが心の支えで耐えられない屈辱にも耐えて来たものでした。

 そんなある日のことです。昼休みになり持っていった飯をわずかでしたがそれを食べた後、粉ミルクが支給されてみんなで沸かして飲む事になりました。
 鍋やコップは空き缶ですが、それは作業場に隠してあったので、簡単に沸かすことができました。粉ミルクが沸きました。薄い薄いミルクが出来上がりました。みんなで分けて飲もうとした時でした。一人の兵隊が自分のコップを持って金網の方へ行くんです。その金網の向こうにみすぼらしいビルマ人の子どもが私たちがミルクを飲むのをじっと見ていたのです。その兵隊は、その子に自分のミルクをやって「持って帰って飲むように」と手まねで話をしていました。その子は嬉しそうに大事にそのコップを持って帰って行きました。

 それだけのことだったのですが、私は、じ〜んときました。「この兵隊はきっと日本に子どもを残してきたのではないか。」と思いました。夜、この兵隊と話しました。やはりそうでした。「隊長殿はもっておられませんが、私は3人の子宝を持っている。2・4・6歳、今は、4・6・8歳になっている。会いたいな・・・。」復員してから兵隊を訪ねました。
 福井の駅の裏にお世辞にも立派とは言えないうどん屋を開いていまたが、しかし3人の子宝は輝いて見えました。その2年後、店を新築したというので、もう一度訪ねました。今度は、駅の正面に立派なうどん屋を開店しておりました。
 福井市のうどん屋組合の組合長をやっているということでした。私は思いました。ビルマの捕虜のあったとき、あの作業場でビルマ人の子どもにミルクをやったあの一杯のミルクが、今日の彼の出世の元にあったのではないかと、彼の名前は、金井新太郎。店の名前は「福そば」です。福井へ行かれたら寄ってやって下さい。捕虜収容所で知った父の愛。父性愛の話でした。
 
第六回目  
      「戦争はなんと残酷・悲惨か」

 6回に亘りまして聞いていただきました私の戦争体験談も、これが終わりになりました。まとめとして、これだけは、ぜひ聞いていただきたい。そして、いかに戦争は残酷・悲惨であるかを知って欲しい。そして、平和の尊さ、ありがたさをかみ締めて欲しい。私の願いです。
 それは、昭和20年4月。もう終戦間近。戦局は極度に悪化して敗色は濃厚、退却、退却の毎日でした。雨期で、雨の中を夜行軍で退却していく・・それは悲惨でした。
 退却の道の両側に死体がありました。戦友が死んでいるんです。とっくに逃げたはずの戦友がこんな所で死んでいる。なぜこんな所で死んでいるのか。戦場の最前線では、負傷した兵隊は手当てが出来ません。すぐに傷口にうじがわいて化膿してしまいます。それに、マラリア、アメーバー赤痢、それにかかった兵隊は高熱でふらふら。共に戦力になりません。厄介者。足手まといなんです。そこで野戦病院へ行けと追い払うのです。傷病兵は3人、5人と組んでどこにあるか分からない野戦病院を探してよろよろとよろめきながら、下がって行く、それは惨めで可哀想でした。そんな傷病兵が、気力も体力も尽き果てて座り込んだ時、それが最期でした。
  座り込んだビルマの山奥の道のそば、そこが墓場でした。最後には気力を振り絞って妻子の名を、両親、兄弟の名を呼んだでしょうが、答えるものはなし。空しく死んで行ったその死体だったのです。私はその死体を見て思いました。「この兵隊は来たくてビルマに来たのではない。」一枚の召集令状で親子の絆、夫婦の情を引き裂かれてビルマの山奥まで連れてこられて、こうしてここに死んでいる。日本の留守宅では死んでいるとは知らない。陰膳に好物を供え、氏神様にお百度を踏んで「無事でいてくれよ。早く帰ってきてくれよ。」と祈っているだろうに、その兵隊はここに死んでいる。そう思った時、肺腑をえぐられるようでした。体を切り刻まれる様でした。

 戦争は残酷です。何と残酷か。戦争さえなければこんな思いをしなくて良かったのに。戦争は何としてでも避けなければならない。絶対に戦争をしてはならない。このことを、強く強く皆様に訴えて、6回に亘りました、私の戦争体験談を終わります。お聞き下さいまして、皆様ありがとうございました。ありがとうございました。